諸大名の城下町でのごみ処理とは

2011-10-24

江戸時代に、ごみの処理に苦労したのは国の中心であった江戸の町だけではない。地方の国を領有していた諸大名の城下町でも、多くの武士や町民が集まって住むようになると、当然のことながら、ごみの処理が問題になってきたと思われる。豊臣秀吉の五大老の一人であった毛利藩主・毛利輝元は、関ケ原の戦いに敗れた後、一六〇四(慶長九)年に長門国の日本海側の漁村であった萩(現在の山口県萩市)に城を築いて移り住んだ。当時、萩に住んでいた戸数は約四〇〇〇戸、人口は武士とその家族、町民を含めておよそ三万人であったと言われているが、周防・長門の国の中では最も大きい町であったと考えられる。毛利藩の七代藩主・毛利宗広の時代(一七四〇年代こ几文年間)に書かれた、藩の古文書『鯛書抜』には、次のような記載がある。「道路の端々へ塵芥を持ってきて捨てることは禁止されている。塵芥は海へ捨てることになっているが、いつも不心得者が道端へ捨てている。そこで、この度、北の浜へ塵捨場の立札を立てたので、そこへ持ってきて捨てること。今後、この場所以外へ捨てる者があれば、見回りの者が注意し、注意を聞かない者は罰することとした」この触書の中で「塵芥は海へ捨てることになっている」というのは、現在のごみ処理から考えると不思議に思えなくもないが、塵芥は道路に捨てずに海岸に設けられたごみ捨場へ投棄するように指示していることから考えて、これらの塵芥は江戸の町のごみと同じように、瓦や陶器のかけら、土砂なのだったのではなかろうか。当時の城下町・萩の武士や町民の生活でも、使い古した紙は漉き替えて再生するか、襖の下張りに用いられ、木切れなどの燃えるごみは据風呂や竃の燃料に使われ、生ごみは牛馬の餌になったと考えられる。したがって、武士や町民が藩の「塵捨場」に捨てたごみは、瓦疎の類が主であったと思われる。なお、同古文書によれば、屋敷の内でごみを燃やすことは、煙が周囲に迷惑をかけるという理由で禁止されている。